それでは、前回に予告した通り、今回は『三年寝太郎』です。
昔話の『三年寝太郎』は、現在の山口県山陽小野田市厚狭地区が発祥と言われています。
「庄屋の息子にもかかわらず、三年間も寝てばかりで、寝太郎と呼ばれた若者が、ある日、急に起き上がり、灌漑《かんがい》を成し遂げて村を繁栄させました。実はただ寝ていたのではなく、ずっと灌漑の方法考えていたのでした」
というのが『三年寝太郎』の基本的なストーリーです。
江戸時代にはまだ「寝太郎」は、絵本や小説などの物語としては成立していません。
ただ、江戸時代の書物に、寝太郎に関する記述は出てきます。
寝太郎のお話の原拠としてよく触れられているのは、天保十三(一八四二)年『防長風土注進案《ぼうちょうふうどちゅうしんあん》』「末益村」の記述です。
『防長風土注進案』
【原文】
山川の野田と言へる所には、今に牡蠣《かき》の附きたる石、遺《のこ》れり。
然るに、年を経て何時と無く埋まり、後世に当たつてハ中々汐の通へる事も無く、広々たる空き地となりけるを、中古大内家、四箇国《しかこく》の武将たりし時に当たつて、賎《しず》の男に一人の異翁《いおう》有り。
世渡りの生業《なりわい》を事とせず、常に寝る事を要《かなめ》とし、万《よろづ》の工夫する事、天晴《てんせい》の生質《せいしつ》たり。
爰《ここ》に於《お》ゐて世人《せじん》その情名《せいめい》を言はず、「寝太郎、寝太郎」と呼びしと也。
終《つい》に潅田《かんでん》の工夫《くふう》を凝《こ》らし、「是《これ》に厚狭川《あさがわ》の流れを引く物ならば、多くの田園と成り、行末此の里の繁栄とも成るべし」と、寝食を忘るゝ事数十日、終に川上沓村《かわかみくつむら》と言へる所に、大いなる堰《せき》を工夫し、是を県に訴へ、蒼生《そうせい》勲《いさお》しと悦《よろこ》び、終には千町《せんちょう》が原を開き田園と成し、末益村《すえますむら》と呼ぶ。
是は「是、行末益々繁盛也」と言ふを説《ときあか》して名とせりと云々《うんぬん》。
此の地寄る所無し。
里民《りみん》、彼《か》の寝太郎が遺績《いせき》を悦《よろこ》び、其の墳墓《ふんぼ》にて少さき祠《ほこら》を建て、寝太郎権現と呼び、今に怠らず歳時に是を祭ると也。
その祠、千町が原の中英に在《あ》り、世人《せじん》能《よ》く知る所ニ而《て》御座候《ござさうらふ》。
※『防長風土注進案』の本文は「寝太郎伝説の深層構造」に拠る。
CURATOR | 千葉大学学術成果リポジトリ
【現代語訳】
山川の野田[山口県山陽小野田市山川野田]という所には、今でもカキが付いた石が残っています。
つまり、元々は海だったのが、長年の間に埋まっていき、そのうち潮が中まで入ってくることもなくなって、千町《せんちょう》が原という広々とした空き地になったのでした。
昔、大内家が四ヶ国の大名だった時、身分の低い変わった老人男性が一人いました。
仕事らしい仕事はせず、いつもただ寝ているだけなのに、いろいろな事を考え出す天性の才能がありました。
なので、村人たちはその老人を本名では呼ばず、「寝太郎、寝太郎」と呼んでいたそうです。
ある時、寝太郎は、
「ここに厚狭川《あさがわ》から水を引いたら、田んぼがたくさん出来て、これから先、この村は繁栄するだろう」
と寝食を忘れて数十日かけて田んぼに水を引く方法を考え始めました。
そして、ついに川上沓村《かわかみくつむら》と言う所に大きな堤防を作れば良い事を導き出しました。
寝太郎はこのことを領主に報告して実行し、多くの村人は素晴らしい功績だと悦びました。
そして、念願かなって千町が原は開かれ田んぼになり、このあたりを末益村《すえますむら》と呼ぶようになりました。
「この村が、行く末も益々繁盛しますように」と言う思いを込めて、村の名を「末益」としたそうです。
この土地はほかとは比べ物にならないぐらい良い場所になりました。
村人は寝太郎の功績を称《たた》え、寝太郎のお墓に小さな祠《ほこら》を建てて、寝太郎権現と呼び、今も忘れず、四季折々にお祭りをします。
その祠は、千町が原の真ん中にあり、村人たちはよく知っている場所でございます。
寝太郎が若者ではなく老人で、三年という期間が示されていない以外は、今伝わる『三年寝太郎』の話と大差はないので、この段階で『三年寝太郎』の物語の原型は出来上がっていたと言えましょう。
ただ、寝ながら物事を考え出す才能の事が、始めに書かれています。
なお、寝太郎が作った堰と祭られた祠は、作り変えられてはいるものの、寝太郎堰と寝太郎荒神社として今も存在します。
これ以外にも寝太郎の記述が無いかと調べると、川北温山《かわきたおんざん》『扈駕余賞《こがよしょう》 下』[『温山文 中』所収]の文政六(一八二三)年四月二日の記事に寝太郎の事が出てきます。
はい、前回の地名辞典に引用されていた文ですね。
作者の温山が枕流亭《ちんりゅうてい》という旅館を訪れた際に、この辺りには十二の名所があると聞きます。その六番目に出て来るのが「寝太郎祠」です。
『扈駕余賞』
【翻刻】
寝太郎祠。古有一老叟。苦思求灌。日偃臥於草莾。人不知其意。以為懶眠。呼稱寝太郎。後得其術。得良田居多。建祠祀之。
温山文. 巻上,中,下 / 川北重憙 著
【書き下し文】
寝太郎祠。古《いにしへ》に一老叟《いちろうそう》有り。苦思《くし》し灌《かん》を求む。日、草莾《そうもう》に於《おい》て偃臥《えんが》す。人、其の意《こころ》を知らず。懶眠《らんみん》と以為《おもへ》らく。寝太郎と呼称す。後に其の術を得る。良田得て居《きよ》多し。祠《ほこら》建て、之《これ》を祀《まつ》る。
【現代語訳】
寝太郎祠。
昔、一人の老人男性がいました。
老人は、田んぼに引く水が少ないのを苦しく思い、なんとかしたいと思っていました。
そして、老人は、日中は草むらにうつぶせで寝てその方法を考えました。
村人は老人が何を考えているか分からず、ただ怠けて眠っていると思い、老人の事を寝太郎と呼びました。
その後、見事に老人は田んぼに水を引く方法を考え出しました。
そのおかげで村は良い田んぼを得て、家も増えました。
村人はその功績を称《たた》え、祠《ほこら》を建てて寝太郎老人を祭りました。
『防長風土注進案』とほぼ同様の内容で、同じく寝太郎が老人で、三年という期間が示されておらず、寝ている理由も最初に明かされています。
この記述は『防長風土注進案』の二十年ほど前で、『防長風土注進案』では大内家のことなどが付け加えられて脚色が進み、民話の成立過程の一端をうかがい知ることができます。
若者より知識も経験もある老人が灌漑の方法を考え出した、今の『三年寝太郎』物語りよりリアリティーがあり、実際にあった出来事なんじゃないかと思わせます。
というか、実際に堰は存在しますしね。
でも、なんだかスッキリしません。
寝ながら考えたという点が、どうもリアリティーに欠けます。
考えるのにわざわざ寝なくてもいいじゃんヾ(๑╹◡╹)ノ"
寝て考えたというのも脚色なのではないかという疑問が起こり、これより前の記述はないかと調べると、『扈駕余賞』より八十年程前に描かれた有馬喜惣太《ありまきそうた》『御国廻御行程記《おくにまわりおんこうていき》』[寛保二年(一七四二)]に寝太郎に関する記述があるということが分かりました。
『御国廻御行程記』
【原文】
祢太郎塚
千町畔に伝はる
千町畔《せんちやうあぜ》と云ふハ、先年、厚狭《あさ》の祢太郎《ねたろう》と云ふ者才人にて、千町の田面《たづら》へ水遣《みずや》りの工夫《くふう》を致し、一向に千町を引き立て、以後、祢太郎死して千町の地主と祭り伝へ、祢太郎塚又千町塚共唱へ来ると、里民《りみん》の説くなり。
厚狭の歴史に触れるガイドウォーク|やまぐちお散歩日和
MAP VIEWER
※「こちずぶらり」というスマホアプリで『御国廻御行程記』を見る事が出来ます。
iOS版もAndroid版もありますよ~んヾ(๑╹◡╹)ノ"
【現代語訳】
千町畔に伝わる祢太郎塚
村人の説明によると、千町畔《せんちょうあぜ》[千町ヶ原《せんちょうがはら》]と言う場所には、昔、厚狭《あさ》の祢太郎《ねたろう》と言う頭が良い者がいました。
祢太郎は、千町の田んぼへ水を引く方法を考え出し、千町を繁栄に導きました。
祢太郎が亡くなった後、千町の土地の神として祭り、祭った場所を祢太郎塚、または千町塚と呼び伝えているとのことです。
はい、寝太郎が灌漑をしたという基本的なことは『防長風土注進案』『扈駕余賞』と同じですが、肝心の「寝ていた」という記述がありません。
そして「寝太郎」ではなく、「祢太郎」と書かれているのがポイントです。
更に、『御国廻御行程記』と同時期[享保十二(一七二七)年から宝暦三(一七五三)年]に書かれた『防長地下上申《ぼうちょうじげじょうしん》』にも寝太郎の記述があるので見てみましょう。
『防長地下上申』
【原文】
一、右、広瀬村と申すも格別由緒御座無し。
尤《もっと》も、此の沖に千町畔《せんちょうあぜ》と申す所、之《これ》有り。
往古《おうこ》荒れ地ニて候所ニ、厚狭《あさ》之祢太郎《ねたろう》と申す者吟味ニて、田地ニ相成り候由、地下人申し伝へ候。
※『防長地下上申』の本文は「寝太郎伝説の深層構造」に拠る。
CURATOR | 千葉大学学術成果リポジトリ
【現代語訳】
広瀬村と言う所は特に由緒があるわけではありません。
ただ、広瀬村の奥に千町畔《せんちょうあぜ》[千町ヶ原《せんちょうがはら》]という所があります。
昔は荒れ地だったのですが、厚狭《あさ》の祢太郎《ねたろう》と言う者の丹念な調査のおかげで田んぼにすることができたと、村人たちの間で言い伝えられています。
これも寝太郎のおかげで田んぼが出来たという基本線は同じなのですが、『御国廻御行程記』と同様に、寝太郎は寝ておらず、表記も「祢太郎」です。
一つの文献だけでなく、同時期の複数の文献が「祢太郎」と表記しているということは、そうです、元々は、「寝太郎」ではなく、「祢太郎」だったと考えるべきです。
それが、『扈駕余賞』や『防長風土注進案』が書かれる八十年から百年の間に、「ね」という発音から表記が「祢」から「寝」と変換され、「祢太郎」から「寝太郎」になり、「寝太郎」という名前なら寝ていたんだろうということで、「寝ながら考えた」という脚色がされていったのだと思われます。
「厚狭《あさ》[地名]の祢太郎《ねたろう》」も「朝寝」を連想させますしね。
「祢」という字は[「禰」と「祢」は同じ文字(異字体)]、「祢宜」「刀祢」「宿祢」など、それなりの役職に対して使われる字です。
なので、「祢太郎」さんもそれなりの役職にあった人なのではないかと推測されます。
『御国廻御行程記』では「才人」って書かれていますしね。
灌漑を成し遂げて神として祭られるほどの土地の偉人が、時が進むにつれて、庄屋の息子のボンボンやら怠け者やらずっと寝ていたやら、あれこれ盛られて民話として成立して行ったというお話でした!ヾ(๑╹◡╹)ノ"
(←いっぱい文章書いて疲れたので、まとめが雑なのをお許しあれヾ(๑╹◡╹)ノ")
で、おまけです。
江戸時代の文献を調査する限りでは、「三年」という言葉は出てこなかったわけなんですよ。
「三年」という数字は「石の上にも三年」など、一区切りによく使われる数字です。
ざっと調べた所、竹内紅蓮編『小哲学 一名笑林』(明治三十四年七月 鳴皐書院)に「寝太郎」を題材にした小噺が収録されているので、この頃には「寝太郎」の物語は広まっていたと思われます。
でも、「三年」という言葉は出てきません。
小哲学 : 一名・笑林. 〔正〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション
ざっと調べただけなんで、漏れがありまくりだと思うんですが、吉村藤舟『郷土物語 第五輯』(昭和三年 本地郷新聞社郷土史研究会)で、やっと「三年」という言葉が見つかりました。
郷土物語. 第5輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション
ここで書かれている寝太郎の話が現在の『三年寝太郎』のベースとなっているのかもしれませんね。
柳田国男先生によりますと、昭和六年頃に大阪朝日新聞の山口版に寝太郎荒神の由来が詳しく書かれたそうなので、この時期に山口県が寝太郎を猛アピールしていたのではないかと推測されます。
桃太郎の誕生 - 国立国会図書館デジタルコレクション
ただ、タイトルは「厚狭の祢太郎」で「三年寝太郎」ではありません。
これまた私がざっと調べた限りでは、荒木精之『肥後民話集』(昭和十九 地平社)でやっと「三年寝太郎の話」というタイトルがついています。
肥後民話集. 続 - 国立国会図書館デジタルコレクション
ただ、内容は随分違ったものですが、よく戦時中に出版が許されたものですヾ(๑╹◡╹)ノ"
以上、おまけでしたヾ(๑╹◡╹)ノ"
三つ目コーナー
僕も寝太郎みたいに三年寝てすごいこと考えるよヾ(๑╹◡╹)ノ"
お前は「三年」じゃなくて、「残念」だけどねヾ(๑╹◡╹)ノ"
◆北見花芽のほしい物リストです♪ ご支援よろしくお願いします♪
◆インフォメーション
井原西鶴の大著、『男色大鑑』の一般向けの現代語訳「歌舞伎若衆編」が発売中です♪
北見花芽の中の人もちょっと書いてるので、興味のある方も無い方も、下のアマゾンリンクから買ってくださると狂喜乱舞します♪
※ 書店で買っても、北見花芽の中の人には直接お金が入らないので何卒。
- 作者: 染谷智幸,畑中千晶,河合眞澄,佐藤智子,杉本紀子,濵口順一,浜田泰彦,早川由美,松村美奈,あんどうれい,大竹直子,九州男児,こふで,紗久楽さわ
- 出版社/メーカー: 文学通信
- 発売日: 2019/10/21
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
「武士編」も好評発売中です♪
全訳 男色大鑑〈武士編〉
『男色を描く』も合わせてお読みいただけるとより楽しめると思いますよ♪
※ こちらも北見花芽の中の人がちょっと書いていますので。
男色を描く: 西鶴のBLコミカライズとアジアの〈性〉
◆北見花芽 こと きひみハマめ のホームページ♪
◆拍手で応援していただけたら嬉しいです♪
(はてなIDをお持ちでない方でも押せますし、コメントもできます)
◆ランキング参加してます♪ ポチしてね♪
◆よろしければ はてなブックマーク もお願いします♪ バズりたいです!w