[まとめ]江戸時代に読まれた一寸法師 - うきよのおはなし~江戸文学が崩し字と共に楽しく読めるブログ~
いやっふー! 妖怪だ妖怪だ。水戸藩は妖怪と縁があったとかいうウワサを聞いたことがあるのですが、どこを調べたら出てくるのか分からないのです。ご存じならぜひ。
2022/10/24 18:16
ご質問の答えにはなっていないのですが、水戸藩と妖怪の関わりと言って、ふと思い出したのが、水戸黄門が八幡の藪知らずに入ったエピソードです。
八幡の藪知らずは、千葉県市川市に今でも存在する禁足地です。
このエピソードは『義公黄門仁徳録《ぎこうこうもんじんとくろく》』[江戸中後期成立か。呑産通人(呑産道人)作]が初出だと思われます。
『義公黄門仁徳録』は、現在の『水戸黄門漫遊記』のベースになった作品です。
この作品は、徳川家の人物のことを書いているので、当然江戸時代には出版することはできず、写本として伝わり、明治時代になってようやく『水戸黄門仁徳録』というタイトルで出版されました。
というわけで、『義公黄門仁徳録』の「下総国八幡宮藪を八幡知らずと申す事」を今回から読んでいきたいと思います。
『義公黄門仁徳録《ぎこうこうもんじんとくろく》』[江戸中後期成立か。呑産通人(呑産道人)作]巻二十七「下総国八幡宮藪を八幡知らずと申す事」
※国文学研究資料館所蔵 (CC BY-SA)
新日本古典籍総合データベース
【原文】
義公黄門仁徳録《ぎこうこうもんじんとくろく》巻弐拾七
斯《か》くて義公様にハ鐘が淵《ふち》にて、釣鐘を引き上げ給ひしかど、龍神是を惜しミにや、終に毛綱《けづな》まで切れしかバ、其の侭《まゝ》に差し置かれ、御館へ御帰館にて、其れより、また/\水戸西山へ御帰りしの節、此度ハ真間《まま》鴻《こう》の臺《だい》の辺を御通行にて、夫れ[夫れより]市川を御越し有り。
下総《しもふさ》の国 八幡《やはた》へ入《い》らセられ、爰《ここ》にて暫《しばら》く御休足有りし所に、此れ《の》邊ハ全て家居も稀《まれ》にして、山の半腹《はんぷく》に八幡宮《はちまんぐう》の宮居 在《まし/\》て、夫れより左右一面の竹藪生い茂りて、是を八幡《やはた》の八幡《やはた》知らずと言ふ。
【現代語訳】
『義公黄門仁徳録《ぎこうこうもんじんとくろく》』巻二十七
こうして義公様[徳川光圀の諡号《しごう》(死後に付けられる尊称)]は、鐘ヶ淵《かねがふち》[東京都墨田区]に沈んでいる釣鐘をお引き上げなさろうとしたのですが、龍神が釣鐘を引き上げられるのを残念に思ったのか、とうとう引き上げるために釣鐘に結んでいた毛綱《けづな》まで切ってしまったので、釣鐘は引き上げずにそのまま放っておくことにし、江戸のお屋敷へお帰りになりました。
それからまた、水戸西山へお帰りになられる際、真間《まま》鴻《こう》の台[千葉県市川市]の辺りをお通りになって、市川までお越しになりました。
下総国八幡《しもうさのくにやわた》[千葉県市川市]にお入りになり、ここでしばらくご休憩なさいました。
この辺り一帯は人家もほとんどなく、山の中腹に八幡宮の社殿があって、そこから左右一面に竹藪が生い茂り、ここを「八幡《やわた》の八幡《やわた》知らず」と言いました。
【解説】
冒頭の鐘ヶ淵のエピソードは巻二十六のお話なので、興味のある方は各自でどうぞヾ(๑╹◡╹)ノ"
本作では「八幡の藪知らず」ではなく「八幡《やわた》の八幡《やわた》知らず」と書かれていますが誤植ではありませんのでヾ(๑╹◡╹)ノ"
次回は「八幡の八幡知らず」の由来が語られます。
久々に三目黄門の登場だよヾ(๑╹◡╹)ノ"
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