あれ?「累ヶ淵」のお話はもう終わったはずなのに、まだ続いてる???
ちょっと気になることがあるんだよヾ(๑╹◡╹)ノ"
なに?
「累ヶ淵」って言葉が、作中で一度も出てこなかったから気になってさヾ(๑╹◡╹)ノ"
それなら、「累ヶ淵」の件に関して、山東京伝『近世奇跡考』[文化元(一八〇四)年初版]巻2-7で詳しく考察されているから、該当箇所を見てみようよ。
※この記事では国立国会図書館デジタルコレクションの画像を適宜改変して使用しています。
近世奇跡考 5巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
【原文】
七 羽生村《はにふむら》累《かさね》の古跡《こせき》
下総国《しもふさのくに》岡田郡《をかだごほり》羽生村、百姓与右衛門妻 累《かさね》、正保四年 亥《い》 八月十一日、夫与右衛門が爲《ため》に絹川《きぬがは》において殺害《せつがい》せらる。其の所を今に累ヶ淵《かさねがふち》と云ふ。
与右衛門 後妻《こうさい》を迎ふる事五人。皆、累が爲に取り殺さる。
六人目の妻、娘菊を産む。菊十三の年、寛文十一年亥八月 中旬《ちゆうじゆん》、其の母も又、取り殺さる。
翌《よく》寛文十二年 子《ね》 正月四日より、累《かさね》が怨霊、《おんりヤう》又菊に憑《つ》きて苦しめけるを、同年三月十日、尊《たふと》き教化《きヤうげ》に会ひて、累、成佛《じヤうぶつ》し、菊、一命《いちめい》を助かりし事、『死霊解脱物語』元禄三年板本、『新著聞集』寛延二年板本、等に記して、人皆知れる事なれバ、詳しく記すに及ばず。
案ずるに、与右衛門、堀越氏《ほりこしうぢ》也。
累《かさね》、実名、累《るい》と云ふ。累《るい》の字、「かさぬ」と訓《くん》ずる故《ゆゑ》に然《しか》ハ呼びけるならめ。
法蔵寺の過去帳《くわこちウヤう》に「俗名るい」と有るを以て、証《しヤう》とすべき歟《か》。
【現代語訳】
七 羽生村《はにゅうむら》の累《かさね》の古跡《こせき》
下総国《しもうさのくに》岡田郡《おかだごおり》羽生村《はにゅうむら》[現・茨城県常総市羽生町]、百姓与右衛門の妻 累《かさね》は、正保四[一六四七]年(亥年)八月十一日、夫与右衛門に絹川で殺害されました。
その場所を、今は累ヶ淵《かさねがふち》と言います。
与右衛門は後妻を五人迎えましたが、皆、累に取り殺されました。
六人目の妻は、娘の菊を産みましたが、菊が十三歳の年、寛文十一[一六七一]年(亥年)八月中旬に、六人目の妻もまた累に取り殺されました。
翌寛文十二[一六七二]年(子年)正月四日から、累の怨霊は菊にも取り憑《つ》いて苦しめましたが、同年三月十日、尊い教えに導かれて、累は成仏し、菊は一命を取り留めました。
このことは、『死霊解脱物語』(元禄三[一六九〇]年刊)、『新著聞集』(寛延二[一七四九]年刊)などに記されて、誰もが知っていることなので、詳しくは書くまでもありません。
調査の結果、与右衛門は堀越氏だと分かりました。
累《かさね》の実名は、累《るい》と言います。
累《るい》の字を「累《かさ》ぬ」と訓読みするので、「累《かさね》」と通称したのでしょう。
法蔵寺の過去帳に「俗名るい」とあるのが、その証拠となるでしょうか。
【解説】
とりあえず、この時代にちゃんと「累ヶ淵」という言葉は使われていて、累が殺害された場所のことを言うようです。
そして、この頃には、誰もが知っているお話だったようです。
与右衛門は堀越という苗字だったようで、農民なのに苗字を名乗れたということは、与右衛門の家は庄屋レベルの力を持った農民だったのでしょう。
まだ続きがあるので、次回。
累が殺害された場所が「累ヶ淵」なんだって、これで納得した?
うん、だけど、何で僕をこんな淵に連れてきたのヾ(๑╹◡╹)ノ"
今日からここは、三つ目ヶ淵になるんだよヾ(๑╹◡╹)ノ"
(ドンッ! ポチャン。ブクブク、、、)
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