なんだか、織田信長に仕えたアフリカ人の弥助《やすけ》のことが騒動になってると、教えていただきまして。
この手の議論だか論争には巻き込まれるのが嫌なので、参加するつもりはないのですが、前から、弥助の事は気になってまして。
というわけで、とりあえず、弥助の事が書かれた、当時の資料をすべて読んでみようではないかと。
すべて読んだからといって、どうこう結論付けるつもりはないので、そのあたりはみなさん各自でw
なお、この記事において、差別的な表現が多く出てきますが、あくまでも当時の資料に書かれた内容を読み解くのが目的であって、差別を助長する意図がない事を、あらかじめご了承ください。
【スマホでご覧の方へ】
諸事情により、PC版と同じデザインになっています。なるべくスマホでも読みやすいようにはしているのですが、もし、字が小さいと感じた場合は、スマホを横にして拡大すると読みやすいと思います。
別館も更新しています、見てね!ヾ(๑╹◡╹)ノ"
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『信長公記』
『信長公記《しんちょうこうき》』は、織田家の家臣であった太田牛一《おおたぎゅういち》によって書かれたもので、出版はされず、書き写されて写本で伝わりました。
タイトルも『信長記《しんちょうき》』であることが多いのですが、小瀬甫庵《おぜほあん》の小説『信長記』と区別するために、太田牛一のものは『信長公記』と呼ばれています。
写本にはいくつものバージョンがあるのですが、ここでは、池田本と呼ばれる太田牛一の自筆本を読んでみましょう。
◆池田本◆
岡山大学附属図書館所蔵
※画像調整、赤字の書入れ等は筆者。
【原文】
二月廿三日
切支丹國《きりしたんこく》より、黒坊主参り候。
年の齢《ヨワイ》廿六七と相見《あひみ》え、惣《すべ》ての身の黒き事、牛の如く、彼の男、健《スク》やかに、器量也。
然《しか》も、強力《がうりき》、十《ツヾ》ノ人に勝《スグ》レたる由候。
伴天連《ばてれん》召し列《つ》れ参り、御礼申し上げ候。
誠に御威光を以て、古今、承《うけたまは》り及ばざる三國の名物、斯様《かやう》に弥《いよいよ》奇の者共、餘多《あまた》拝見仕《はいけんつかまつ》り候也。
【現代語訳】
天正九[一五八一]年二月二十三日
キシリタンの国から、黒坊主がやってきました。
この男は、年齢は二十六、七歳と見え、全身が牛のように黒く、丈夫な体を持っていました。
しかも力が強く、十人の力にも勝るほどです。
バテレン[神父]が召し連れてきて、信長様にご挨拶《あいさつ》を申し上げました。
実に、信長様のお力のおかげで、これまで聞いたことがないような世界の名物や、このようにますます変わった人物たちを、多く拝見することができるのです。
以上のように、『信長公記』の記述では、バテレンが信長の所にアフリカ人を連れてきたということが分かるだけです。
ただ、尊経閣本という写本には、この続きが書かれていまして、その内容が問題となっているようです。
◆尊経閣本◆
【原文】
然るに、彼の黒坊、御扶持《ごふち》成《な》され、名をバ弥助と号す。
鞘巻《さやまき》の熨斗付《のしつけ》、幷《ならび》に私宅等迄《したくなどまで》仰せ付けられ、時に依《よ》り御道具等《おどうぐなど》持たさせられ候。
※尊経閣本の実際の画像等は断片的にしか見ることができなかったので、各所の情報をまとめて原文を構築しました。
【現代語訳】
ところで、この黒坊主は、信長様に召し抱えられてお給料を与えられ、名を弥助と言いました。
装飾刀や個人宅などまで与えられ、場合によっては御槍持ちなどもさせられました。
この記述で、アフリカ人の名前が弥助だという事が分かります。
そして、弥助は奴隷としてではなく、給料を与えられて信長に召し抱えられ、その上、刀や家まで与えられて、時には目立つ槍持ちなどもさせられたという、好待遇であったことが読み取れます。
ただ、この記述は尊経閣本にしか書かれておらず、比較的新しい写本でもあるので、あとから何者かによって、書き足された可能性が捨てきれません。
『家忠日記』
『家忠日記』は、徳川家の家臣の松平家忠の日記です。
自筆本もあるのですが、権利面の問題で、ここでは写本を掲示しました。
茨城大学図書館所蔵
※画像調整、赤字の書入れ等は筆者。
【原文】
十九日 丁未《ひのとひつじ》 雨降り
上様、御扶持《ごふち》候、大臼《だいうす》進上申し候、黒男《くろおとこ》、御連れ(候)、身ハ墨ノ如ク、丈《タケ》ハ六尺二分、名ハ弥介と云ふ。
[デウス(Deus)→提宇子《でうす》→提宇子《だいうす》→大臼《だいうす》。キリスト教徒のこと]
【現代語訳】
天正十[一五八二]年四月十九日 丁未《ひのとひつじ》 雨降り
信長様は、お給料を与えて召し抱えている、宣教師から献上された黒男をお連れしていました。
黒男の体の色は墨のようで、身長は六尺二分[約182センチ]、名前は弥介と言います。
家忠は、信長が甲州征伐の帰路、徳川領を通った時に弥助を見たようです。
尊経閣本の記述が後付けだったとしても、この記述から、アフリカ人の名前が弥助(弥介)で、弥助が信長に召し抱えられていたことは確かで、甲州征伐に連れて行くほど、信長のお気に入りだったことが分かります。
今、一般的には「弥助」と表記されていますが、ここでは「弥介」と表記されていますね。
自筆原本でも表記は「弥介」となっています。駒澤大学 電子貴重書庫
写本では「弥助」となっているものもあります。駒澤大学 電子貴重書庫
漢字の表記に関しては、この時代、結構いい加減なので、大きな問題ではないかなと。
実は、日本の文献で弥助について書かれているのは、以上が全てです。
重要人物なら、もっと記述が残っているはずです。
つまり、弥助は、マスコット的な存在で、さほど重要な役割は担っていなかったのではないかと。
『イエズス会日本年報』
日本の文献以外で弥助に関して書かれているものとして、『イエズス会日本年報』に掲載されている三つの書簡があります。
チラ見はしましたが、さすがにポルトガル語の原文は読めないので、著作権の保護期間が切れている翻訳があったので、読みやすいように表記を修正して、引用します。
原典の画像のリンクも貼っておくので、ポルトガル語が読める方は読んでみてください(笑)
耶蘇会の日本年報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション
◆1581年4月14日(天正9年3月11日)附、パードレ・ルイス・フロイスが京都より、日本在留の一パードレに贈りし書翰《しょかん》◆
復活祭日に続く週の月曜日(3月27日、即ち天正9年2月23日)、信長は都に居たが、多数の人々が我がカザ[修道院]の前に集まって、黒奴《こくど》を見んとした為《ため》、騒《そう》が甚《はなは》だしく、投石の為、負傷者を出し、又、死せんとする者もあった。
多数の人が門を衛《まも》っていたに拘《かかわ》らず、之《これ》を破る事を防ぐ事が困難であった。
「若《も》し、金儲けの為に黒奴を観《み》せ物としたらば、短期間に八千、乃至《ないし》、一萬《いちまん》クルサド[ポルトガルの貨幣]を得る事は容易であろう」と皆言った。
信長も之を観ん事を望んで招いた故《ゆえ》、パードレ[神父]・オルガンチノ[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ]が同人を連れて行った。
大変な騒で、其の色が自然であって人工で無い事を信ぜず、帯から上の着物を脱がせた。
信長は又、子息達を招いたが、皆、非常に喜んだ。
今、大阪の司令官である信長の甥《おい》[津田信澄]も之を観て非常に喜び、銭一萬(十貫文)[1両10万円で計算すると25万円]を与えた。
耶蘇会の日本年報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション
Biblioteca Geral Digital - Cartas que os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da mesma Companhia da India, & Europa, desdo anno de 1549 atè o de 1580.
『信長公記』と同じ日の事ですね。
弥助を一目見ようと、都は大騒ぎだったようです。
信長も初めてアフリカ人を見たようです。
信長の甥っ子津田信澄も喜んで、太っ腹で大金を与えます。
なお、津田信澄は妻が明智光秀の娘であったがために、本能寺の変のあと、謀反人と疑われ、討ち取られてしまいました。。。
◆1581年10月8日(天正9年9月11日)、パードレ・ロレンソ・メシヤが府内より、パードレ・ペロ・ダ・フオンセカに贈りし書翰◆
パードレは黒奴一人を同伴していたが、都に於《お》いては嘗《かつ》て見たる事無き故、諸人皆驚き、之を観んとして来た人は無数であった、
信長自身も之を観て驚き、生来の黒人で、墨を塗ったもので無い事を容易に信ぜず、屢々《しばしば》之を観、少しく日本語を解したので、彼と話して、飽く事無く、又、彼が力強く少しの芸が出来たので、信長は大いに喜んで之を庇護《ひご》し、人を附けて市内を巡らせた。
「彼を殿《との》とするであろう」と言う者もある。
耶蘇会の日本年報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション
Biblioteca Geral Digital - Cartas que os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da mesma Companhia da India, & Europa, desdo anno de 1549 atè o de 1580.
『信長公記』及び、先ほどのルイス・フロイスの書簡と同じ日のことですね、
パードレの名前が書かれていませんが、先ほどのルイス・フロイスの書簡と照らし合わせると、オルガンティノのことでしょう。
少しでも日本語が分かり、信長と会話をしたというのが、すごすぎます。
芸というのは、『信長公記』にも「強力、十ノ人に勝レたる」とあるので、力自慢的なものでしょうか。
それにしても、街をパレードさせるほど、信長はかなり弥助をお気に召したようで。
「庇護し」とあるので、この時点で信長は弥助を召し抱えたということでしょうか。
「彼を殿《との》とするであろう」というのが、問題になっているようですが、これは単なる市井の噂話で、信長の発言ではありません。
◆1582年11月5日(天正10年10月20日)附、口ノ津発、パードレ・ルイス・フロイスが信長の死に付、耶蘇会総長に送りたるもの◆
又、ビジタドール[巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]が信長に贈った黒奴が、信長の死後、世子《せいし》[織田信忠]の邸に赴き、相当長い間戦っていた処《ところ》、明智[明智光秀]の家臣が彼に近づいて、恐るる事無く、「其の刀を差し出せ」と言ったので、之を渡した。
家臣は此の黒奴を如何《いか》に処分すべきか明智に尋ねた処、「黒奴は動物で何も知らず、又、日本人で無い故、之を殺さず、印度《いんど》のパードレの聖堂[南蛮寺]に置け」と言った。
之に依って我等は少しく安心した。
[【追記】「恐るる事無く」は、翻訳を読む限り、家臣のセリフにも解釈できますが、原文の「 & lhe pedio a cataná, que não tiveſſe medo elle lha entregou, 」(原典の印刷の状態が悪く、ポルトガル語に詳しくもないので、正確に表記できていないかもしれません)を踏まえると、「明智の家臣が刀を差し出すよう要求すると、黒奴は恐れることなく刀を差し出した」と解釈した方が良いかもしれません。]
耶蘇会の日本年報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション
Biblioteca Geral Digital - Cartas que os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da mesma Companhia da India, & Europa, desdo anno de 1549 atè o de 1580.
宣教師の称号には、「パードレ(神父、司祭)」と「イルマン(助修士、平修道士)」があり、「パードレ」の方が位が上です。
よく聞く「バテレン」は「パードレ」がなまった言い方です。
ヴァリニャーノだけが、ほかの宣教師とは異なり、「ビジタドール(巡察師)」、または「ビジタドールのパードレ」と呼ばれています。
「ビジタドールが信長に贈った黒奴」とあるので、信長の前に弥助を連れて行ったのはオルガンティノですが、実際に召し抱えていたのはヴァリニャーノということでしょう。
ちなみに、ヴァリニャーノと信長の対面は、弥助が信長と対面した二日後の二月二十五日に行われたと、最初のルイス・フロイスの書簡に記載があります。
さて、弥助が赴いて戦闘をした「世子[織田信忠]の邸」とは、どこだったのでしょうか?
信忠は当初、妙覚寺に滞在していましたが、光秀の謀反を聞いて、二条新御所に移って戦闘が行われました。
この記述の前の箇所で「妙覚寺」のことを「世子の邸」と言っているのですが、誰もいなくなった妙覚寺で戦闘があるはずもなく、そのような記録も無いので、弥助が戦っていたのは、おそらく二条新御所であると思われます。
それにしても、弥助は信長に同行していたと思われるので、よく本能寺を抜け出して、信忠の所に行けたものです。
抜群の身体能力を駆使したのでしょうか。
長時間戦えるほどの体力と剣の腕もあったようですし。
どういう意図で光秀が弥助を許したのかは分かりませんが、南蛮寺に送られた以降の弥助の消息は不明です。
『日本教会史』
少し時代が下るので、同時代資料とまでは言えないのですが、1627年に出版された、フランソワ・ソリエの『日本教会史』にスルーできない記述があるので、おまけで見てみたいと思います。
『日本教会史』は『イエズス会日本年報』を参考に書かれているようなのですが、弥助と信長の対面シーンの前に『イエズス会日本年報』には書かれていない記述があります。
ただ、『日本教会史』はネット上に翻訳が無かったので、泣きながら原文を訳しました。
原文のテキスト、画像を見ながらそのまま入力したので、たぶん間違いがあると思います。。。
訳も完全に正確ではないとは思いますが、それなりには合ってると思いますので。。。
リンク貼っておくので、フランス語が読める方は読んでみてください。。。
【原文(フランス語)】
Or auoit le Pere Alexandre mené auec ſoy des Indes vn valet More, auſli noir que ſont les Ethiopiens de la Guinee, mais natif du Mozambic, & de ceux qu'on nomme proprement Cafres, habitans vers le Cap de Bonne eſperace.
Histoire ecclésiastique des isles et royaumes du Japon - François Solier - Google ブックス
【日本語訳】
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父は、インドからムーア人従者[弥助]を連れてきました。
その従者は、ギニアのエチオピア人と同じくらい黒いのですが、モザンビーク出身で、喜望峰辺りに住むカーフィルと呼ばれる人々でした。
このように『日本教会史』には、弥助の出自が書かれています。
とてもデタラメで書いたとは思えない記述なので、何か根拠となる資料があったのでしょうか???
ちなみに、ヴァリニャーノが来日したのは天正7[1579]年なので、この時に一緒に弥助も来日したのでしょう。
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そういえば、Wikipediなどに書かれている、
「初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという」
というエピソードは、当時の資料のどこにも書かれていないのですが、どこから出てきた情報なのでしょうか???
あと、本能寺の変で信長の首を隠したとか、信忠に光秀の謀反を知らせたとかいうエピソードも、当時の資料には書かれていません。。。
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以上が、弥助に関して書かれている当時の資料の全てです。
最初にも言いましたが、面倒なことに巻き込まれたら嫌なので、結論的なコメントは差し控えさせていただきますw
ただ、今、読んでいる途中の『男色義理物語』でも触れましたが、主君のために命を懸けて尽くすのが武士道の根本です。
弥助がどの程度の身分を与えられていたかは分かりませんが、投降したとはいえ、最後まで戦い抜いた弥助は、少なくとも武士の魂は持っていたのではないでしょうか。
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なんだ、弥助のことだったら、友達だったから、僕に聞いてくれればよかったのにヾ(๑╹◡╹)ノ"
だから、お前は一体、何歳なんだよ!ヾ(๑╹◡╹)ノ"
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※諸事情により、このアカウントで、はてなブックマークに伺うことができなくなりました。ご了承ください。
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