藤市こと藤屋市兵衛について言及された資料で、一番有名なのが、『町人考見録《ちょうにんこうけんろく》』[享保十三(一七二八)年頃成立]です。
『町人考見録』は、豪商三井家の当主、三井高房が、先代の父高平の話を元に、京都商人の盛衰をまとめて子孫のために残したもので、写本で伝わり、内容の信憑性《しんぴょうせい》も高いと思われます。
今回はちょっと手抜きで、大正時代の活字本でご覧ください。
徳川時代商業叢書 苐一 - 国立国会図書館デジタルコレクション
この活字本、多少間違っている所もあるのですが、ちゃんと実際の写本もいくつか確認しながら訳しました。
【現代語訳】
〇藤屋市兵衛
室町通御池町に住居を構えていました。
初代市兵衛は、同じ御池町の藤屋清兵衛と言う者の手代[使用人]から独立しました。
その際に、主人から商売の資金として、銀五百匁[約八十万円]を受け取り、長崎に通って商売をしました。
商売人の才能がある者だったので、次第に暮らし向きが良くなり、一生の内に二千貫目[約三十億円]の財産を持つ金持ちになりました。
もっとも、主人から資金としてもらった銀だけでは、長崎商いをするのは難しかったので、その際に袋屋[京都の大商人]を頼って、銀百貫目[約一億五千万円]を借り受け、その銀を主な資金として商売をしました。
袋屋も市兵衛に商売人の才能があることをよく知っていたので、かなりの額の銀を、まだ実績がないにもかかわらず、市兵衛に貸し与えて、商売させたのでした。
市兵衛の日常生活は質素倹約で、この市兵衛のドケチ話は、多くの人々が知っていて、草紙の『日本永代蔵』などに、そのエピソードが書かれています。
さて、世間ではかつて、上方から長崎に通って、唐物《からもの》[輸入品]の入札をするものはいませんでした。
上方から船で海を下って長崎に行けるようになると、同じような商売人が立ち並んで唐物を入札するようになりました。
上方から長崎まで来て何も落札しないのは、なんとも世間体が悪いので、何か買わざるを得ない気持ちに自然となり、たいていの人が、意地でも何か買い取るため、想定していたより高い金額を入札して買い取ってしまいます。
そんな調子で相場よりも高く買ってしまった唐物は、上方に持って行くと、その値では売れず、損をすることがそれなりにあるのです。
しかし、この市兵衛は、ある時、長崎へ下り、その年の唐物の入札の様子をうかがうと、かなりの勢いで高値になっているのを目の当たりにしました。
市兵衛は、この価格で落札すると損が出て売り物にならないと考え、入札はせず、その時、九州で穀物の相場が下落しているのに目を付けました。
市兵衛は、唐物は買わず、九州で穀物を調達して上方に戻り、大坂で売り払って大きな利益を得たということです。
市兵衛のように、商売人が買い時を見極め、臨機応変に対応できるのは、いかにも、ほめたたえるべきことです。
初代市兵衛は、五十四、五年前に亡くなりました。
【解説】
なんとまあ、藤市さん、結局、亡くなるまでに、二千貫目もの財を成したのですね、すげえヾ(๑╹◡╹)ノ"
『町人考見録』の成立は、一七二八年頃とされているので、五十四、五年前ということは、初代藤屋市兵衛は、一六七三、四年頃に亡くなったということになります。
『日本永代蔵』の出版は、一六八八年なので、「世界の借屋大将」は初代藤屋市兵衛の死後十五年ほどに書かれたということになります。
故人のことだから、西鶴も結構、大胆にフィクションとして書いたのでしょうが、二代目がちゃんと継いで、まだ藤屋は存続していたので、微妙に配慮はされて書かれているような気はしますヾ(๑╹◡╹)ノ"
『町人考見録』では特にドケチエピソードには言及されず、初代藤屋市兵衛は、商売人として称賛されています。
このあと、藤屋市兵衛の二代目以降のことも書かれているので、次回に読んでいくことにしましょう。
長崎って都市ができる前から、長崎って地名はあったらしいよ ヾ(๑╹◡╹)ノ"
へえ、そうなんだ ヾ(๑╹◡╹)ノ"
名が先ってね ヾ(๑╹◡╹)ノ"ヾ(๑╹◡╹)ノ"ヾ(๑╹◡╹)ノ"ヾ(๑╹◡╹)ノ"ヾ(๑╹◡╹)ノ"
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