徳川時代商業叢書 苐一 - 国立国会図書館デジタルコレクション
【現代語訳】
二代目の市兵衛も、長崎に手代を派遣して商売をしました。
その他に、少しずつ堅実な町貸し[町人相手の金貸し]もしました。
商品は蔵に積んでおいて、利益が出ないときは、売らずにいつまでも貯えておいたので、遠くから入手した貴重な商品なども多く所持し、堅実な暮らし向きを保っていました。
しかし、三代目の市兵衛は、素行不良でぜいたく者だったので、次第に日々の出費が多くなりました。
二代目のように堅実に商品を蓄えておくのは、手っ取り早く金にならないのでやらず、その上、どんぶり勘定なので、収入と支出の計算がいつも合わないようになり、日々の出費も増える一方で、おさまりませんでした。
そして、ふと大名貸し[大名相手の金貸し]を始め、やめたくても引くに引けなくなってしまい、よそから借金までしましたが、それでも首が回らなくなり、十四、五年前にパタンと藤屋はつぶれてしまいました。
この大名貸しも、実は、縁があったから始めたわけです。
この三代目市兵衛の舅《しゅうと》の方の浦井七郎兵衛が、大名貸しだったので、ちょこちょこと留守居役人などに接する機会があって、それで大名貸しに引き込まれたのです。
また、浦井も、自分が貸した金を大名に返してもらえないので、三代目市兵衛が大名貸しに加われば、大名方への体裁も良く、借金を返してもらう働きかけもしやすくなると思ったので、ここぞとばかりに、三代目市兵衛を大名貸しに引き込んだのですが、とうとう両家ともに、大名に借金を踏み倒されて、つぶれてしまいました。
初代市兵衛が先述のように家業を立ち上げ、質素な生活をし、堅実に家業を後継者に引き継いだのですが、三代目市兵衛は調子に乗って初代の教えを忘れ、商売の基本に反して大名貸しをしてしまったのです。
初代市兵衛は商人の鏡であり、三代目市兵衛は子孫への悪い手本であると、常に肝に銘じなければなりません。
【解説】
二代目は初代の志を受け継いで堅実だったみたいですが、三代目が初代とは逆の性格の人物だったようで、やらかしてつぶれてしまったようです。
藤屋がつぶれたのは、一七一三、四年頃ですかね。
大名貸しという、大名相手の取引はステイタスであり、魅力的だったのでしょうが、相手は大名です。
返済が滞ったり、踏み倒すのは当たり前で、結果、大名貸しをした多くの店がつぶれてしまったようです。
でも、大坂の鴻池《こうのいけ》のように、大名貸しによって、藩の財政を掌握してしまう商人もいたというから、すごいですよねヾ(๑╹◡╹)ノ"
ちなみに、『町人後見録』によると、初代に融資をした袋屋も大名貸しによって、六十年ほど前[一六六八年頃か]につぶれてしまったみたいです。
さて、藤屋市兵衛に関しては、『日本永代蔵』と同時期に書かれた、興味深い資料があるので、次回に紹介したいと思います。
その資料には、みなさんが気になっている、藤市の娘さんのその後についても書かれていたりします。
僕は三代目じゃなくて、三つ目だよ ヾ(๑╹◡╹)ノ"
顔は三枚目だけどな ヾ(๑╹◡╹)ノ"
グループ参加してます、ポチしてね♪
新ブログ開設しましたヾ(๑╹◡╹)ノ" よろしくね♪
kihimikeheme.hatenablog.com
三つ目のLINEスタンプ、発売しました!
store.line.me
◆拍手で応援していただけたら嬉しいです♪
(はてなIDをお持ちでない方でも押せますし、コメントもできます)
◆ランキング参加してます♪ ポチしてね♪