『義公黄門仁徳録《ぎこうこうもんじんとくろく》』[江戸中後期成立か。呑産通人(呑産道人)作]巻二十七「下総国八幡宮藪を八幡知らずと申す事」
※国文学研究資料館所蔵 (CC BY-SA)
新日本古典籍総合データベース
【原文】
其の事の元を尋ぬるに、古《いにしへ》、鎌倉天下の時分に諸國行脚《しょこくあんぎや》の僧に釈《しやく》の浄念《じやうねん》と言ふ者有り。
此の者、元来、大和の國、添《そう》の上郡《かみこおり》春日《かすが》の里の生まれにて、幼《いとけな》きより佛道に心ざし、十八才の時剃髪して、諸国の霊場を巡礼し、三十一才の時、此の八幡《やはた》に来たり。
八幡宮《はちまんぐう》を伏し拝ミ、其の頃ハ一向《いつかう》道も無く、彼方此方《あなたこなた》と竹藪の間を通り抜《ぬ》け、鉦《かね》打ち鳴らしけるに、僅《わづ》かに半道《はんみち》ばかりの竹藪の内を、日数十五日の間、経巡《へめぐ》り歩き、漸《やう/\》十六日目に今の行徳《ぎやうとく》と八幡《やはた》の間の坂道に出たり。
此の浄念、元より世捨て人なれば、更に是を愁《うれ》へとセず、日数十五日の間、一粒《いちりう》の食物も無く、只鉦を打ち鳴らして、足に任せて歩行《あるき》けるに、矢張《やは》り其の藪の内より僅か是まで差し渡し弐丁余の道なれバ、流石《さすが》の浄念大きに驚き、見渡せバ、藪の深き半道ばかりにして、随分目の届く程なり。
又、差し渡しは三丁にハ足らズして、僅かなる竹藪、
「何《ど》の様に致セバとて、半日ハ掛かるまじきに、凡《およ》そ日数十五日に及びしハ、如何《いか》なる事ぞや」
と、初めに其の心付きて、身の毛も弥立《よだ》ち、
【現代語訳】
「八幡の八幡知らず」の由来はというと、昔、鎌倉時代に、諸国行脚《しょこくあんぎゃ》をする釈《しゃく》の浄念《じょうねん》という僧がいました。
浄念は元は大和国添上郡春日郷《やまとのくにそうのかみごおりかすがのさと》[奈良県]の生まれで、幼い時から仏道を志《こころざ》し、十八歳の時に剃髪《ていはつ》して、諸国の霊場を巡礼し、三十一歳の時に、この八幡《やわた》に来ました。
八幡宮《はちまんぐう》を伏し拝み、その頃は全く道らしい道もなく、あっちかなこっちかなと、浄念は竹藪の間を、鉦《かね》を打ち鳴らして、通り抜けようとしました。
わずか半道《はんみち》[約2キロ]ぐらいの竹藪の中を十五日もの間、浄念はあちこち歩き回り、やっと十六日目に今の行徳《ぎょうとく》と八幡の間の坂道に出ました。
この浄念は元々世捨て人[俗世間との関係を断った人]だったので、全くこれを苦にせず、十五日の間、全く食料もないのに、ただ鉦を打ち鳴らし、足の赴《おもむ》くまま歩いたのでした。
ところが、振り返ると、結局、竹藪の中の見える所からここまで、わずか直径二丁余り[約220メートル]の道のりだったので、さすがの浄念も驚き、見渡せば、竹藪の広い幅でも、わずか半道《はんみち》[約2キロ]ぐらいで、せいぜい目の届く範囲でした。
また、狭い幅は直径三丁[約330メートル]に足りないぐらいの、小さな竹藪だったのです。
「どうやっても半日以上はかかるはずがないのに、そもそも十五日もかかったのは、どういうことだ」
と、浄念は初めて異変に気づき、恐怖で体中の毛が逆立ったのでした。
【解説】
「八幡の八幡知らず」の由来は、鎌倉時代までさかのぼるようです。
釈の浄念という僧が、約300メートル×約2キロメートルの小さな竹藪を通り抜けるのに、十五日間もかかったというのです。
とはいえ、現在の八幡の藪知らずよりは、だいぶ大きいですね。
次回も、釈の浄念の話がもう少し続きます。
三目黄門のお供の、スケさんとカクさんだよヾ(๑╹◡╹)ノ
※閲覧注意!心臓の弱い方は拡大しないでください(笑)
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